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ときめきを追いかけて。

「実」の年へ。

すべてを一括りにすることは悪なのか。

Ask.fm

だいぶ前にこんな質問がきました。

 

「民族をひとくくりにして評価を下すのは最低の行為」と良く言われますが、その論理でいくと逆に「カナダ人は親切」「ハワイの人は温かい」といった事を言うのもあまり好ましくはないですか?

 

じっくり時間をとって考えてから文章にしたかったので、回答が遅くなってしまって申し訳ないです。

 

 

自分の意見を発するとき、わたしは、「一概には言えませんが」「個人によって差はありますが」と、よく言います。

自分の世界を見るレンズは多角的に保つように磨いているつもりですが、それでも見ている世界が狭い、まだまだわたしは何もわかっていない、と思うからです。

同時に、文化(広義)という大きな一括りでコミュニティーを見ることも多い平和学を勉強する身として、文化(狭義)や人種、ジェンダーや国籍、地域や経済クラスというカテゴリーで一コミュニティーを括ることが、決して間違っているとも言えません。

 

 

よくわたしは、一個人の文化(広義)とは、様々な文化(狭義)の便宜図の合わさった部分、と言います。だから同じ人なんて決していないのだ、と。

その土地、人種、家族、そして個人に根ざした歴史がある以上、どう頑張ってもわたしたち人類には、同じような人間を生産することは無理なんです。

似ているように思えても、実はまったく違うものの考え方をしたりすることもありますし、違うように思えても、実は同じようなものの捉え方をしたりすることもあります。

それは、カテゴリー云々で予測することはできても、はっきり決めつけることができないんですね。

論点は逸れますが、だから人間っておもしろいんだと思うんです。

 

 

質問に戻ると、答えはYesでもNoでもある、と思います。

もちろん反論もあることは予想しています。

 

なぜYesなのか、というと、それらがポジティブなものだからです。

別に言われて悪い気はしないようなこと、相手当人にも当てはまるようなことなら、どんどん伝えれば良いじゃない、というのがわたしのモットーです。

 

ここが気をつけなければいけないポイントだと思うのですが、たとえば、「アジア人だから数学が得意」というのは言われて悲しい気持ちになる人もいます。「数学が得意なのはアジア人だから」というのはもっと悲しい気持ちになりますね。

 

でも、質問にもあったように、「ハワイの人はあたたかい」「カナダの人は親切」というのは、相手がハワイやカナダの人なら言えば良いことじゃないんでしょうか。

言われたら、「あぁ、この人は、わたし/僕のこともあったかい人だと思ってくれているんだな」ってなるじゃないですか。

普段のカジュアルな会話くらいなら、「ハワイにこの間行ったんだけどね〜。向こうの人ほんとうにあたたかくて素敵だった!」って言えば良いと思います。別にそこで、「でもこの前すごく嫌な人に会ったんだよ」って相手が返してきても、自分の意見や体験を否定されているわけではありません。主語が自分で、対象がはっきりしていればしているほど、それが良いか悪いかは別として、具体化されますね。

 

 

でも、Noである理由は、質問にも書かれているように、決めつけてしまっているからです。

そのボーダーラインってすごく難しいと思うんですよね。

 

特に、昨今、様々なソーシャルカテゴリーの人の権利が議論されるなか、誰かの発言にとても敏感になっている人もいます。

わたしは、もうその辺は、見極めて臨機応変に対応するしかないのかな、と個人的に思っています。

ただ、冒頭に書いた、個人は様々な文化(狭義)の便宜図の合わさった部分である、というアイデアを常に自分に言い聞かせることが、相手を傷つけない上手なコミュニケーション法に、また、自分が世界を見るときの指標に、なるんじゃないかと信じています。

 

 

最後に少し。

わたしが個人的に意識していることは、

・良いことがあったらそれを広く反映させること。

・何か嫌なことをされたらそれを個人の一行為レベルにとどめること。それを個人全体に当てはめて、「なんて嫌な人なんだ」と思わないこと。

です。

 

そうすると、少し周りが明るくなりますよ*