読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ときめきを追いかけて。

地に根を張る年。

セルフアイデンティティーとソーシャルカテゴリー

少し難しいトピックで長くなりますが、どうしても自分が考えたことを書き留めておきたいので書きます。

 

先日、お友だちのひとりがFacebookにこんな記事を投稿しました。

 

 

ざっと訳すと、筆者は、最近男性から女性に性転換をしたCaitlin Jennerという方は、女性ならば誰もが経験する、夜中に道をひとりで歩いていて男の人が後ろを歩いているときに感じる恐怖や、生理現象によって起こる身体や心の不調、妊娠時の痛みや苦労、女性だからという理由で自分が行った立派な仕事を社会的に認めてもらえない、ということを経験しないため、結論として女性ではない、という主張をしています。

 

それに対して、わたしのお友だちは、みんなはどう思う?と聞いたわけですね。

大方、女の子たちが、その質問に回答していたのですが、全員が、この主張はおかしい。生理現象だけでそんなものは決め付けられない。と主張しました。

中には、マイノリティーの女性がいちばん社会的に認められていないのだから性転換したとは言え白人はまだ恵まれているしそんなことを議論する必要はない、という、当記事から少し逸れて過激な主張も見られました。

 

 

それで、わたしはずっと考えていたんです。

 

個人的には、この記事に別に共感できないわけではない。

ただ、あまりにも生物学的なことを細かく描写しているから、そこだけ突出してしまっていて、その部分にしか世間の注目が集まらないことは良くない。

それなら、どうすれば納得できる説明ができるのか。

 

反論もあるかとは思いますが、わたしが導き出した答えがこれです。

 

 

性とジェンダーの違い、そして、セルフアイデンティティーとソーシャルカテゴリーの違い。

 

この2つの違いを説明し、かつ、記事の筆者のバックグラウンドを推測することができれば、納得するんじゃないか、この記事も良いインパクトを残せるんじゃないか、と思ったんです。

 

 

性が、生物学的なものを指すのに対して、ジェンダーとは社会での役割を指します。

ここでセルフアイデンティティーとソーシャルカテゴリーの違い、というものが出てきます。

 

性と一口に言っても、決め方はたくさんあります。

 

自分を男性だと思うのか、女性だと思うのか、あるいはどちらでもないと思うのか。

その判断基準は、容姿なのか、心なのか、感情なのか。

これらは、すべて、セルフアイデンティティーです。

つまり、誰にも侵略されるべきでない、本人が決めるものです。

 

ただ、世間に出てみるとどうでしょう。

男性とは(生まれながらにして)こういう姿であるべき、女性とは(生まれながらにして)こういう姿であるべき、というのが、ある程度共有されていますね。

これがソーシャルカテゴリーです。

 

今回のケースは、彼女(わたしはCaitlinが自分は女性だと主張することをリスペクトします)が、自分では女性だと決めていて、世間が思い描いているような女性の容姿を持っていますね。

ただ、生まれたときは男性の姿だったということに引っかかりを覚える人もいます。

そこがまずひとつめの論点です。

 

また、生物学的に、男性性、または、女性性しか経験しないこともあります。

これはセルフアイデンティティーの判断基準には入る場合と入らない場合があります。

ソーシャルカテゴリーには入るべきなのか。それが今回のケースにおける、ふたつめの論点です。

 

 

同じような考え方をジェンダーにもアプライしてみます。

 

ジェンダーとは、一般的に、社会での役割を指します。

ただそれもまだ広義なので曖昧ですね。

男性とは、女性とは、こうあるべきである、という個人レベルのものから、社会レベルなものまで分かれている、というともう少し具体的になるでしょうか。

男性とは、女性とはどうあるべきなのか、というのを、誰がどのレベルまで決めても良いのか、または、許されるべきなのか。これがみっつめの論点です。

 

たとえば、ビジネス服。

男性はスーツパンツにジャケット、シャツにネクタイという姿が一般的です。

女性は、”女性らしいラインの”スーツパンツまたはスカート、ジャケットにブラウスまたはシャツという姿が一般的です。

 

振る舞いひとつとってもそうです。
男性らしい歩き方、女性らしい座り方、男性らしい話し方、女性らしいお作法。

 

これらは、社会が作り上げてきたイメージであると同時に、セルフアイデンティティーを構築するときのひとつの判断基準にも成り得ます。

 

自分は男性だから、女性だから、こういう服を着て、こういう振る舞いをするべきだ(または、したい)ということが指標になる、ということです。

 

女性らしい、男性らしいマナーというのは、どちらかというと社会の基準に頼る部分が大きくなりますね。

また、そのときそのときで所属するコミュニティーが大きければ大きいほど、それが良いか悪いかは置いておいて、社会の物差のほうに天秤が傾きます。

 

 

では、今回のケースの論点である、女性は社会的弱者であるという主張はどうでしょう。

 

これは、セルフアイデンティティーやソーシャルカテゴリーという枠を飛び出した議論が必要です。

 

この主張は、ソーシャルカテゴリーがベースとなっていますが、社会的定義があることが問題そのものなわけではありません。

 

自分が、ある性またはジェンダーなため(だけ)に、差別を感じる、恐怖を感じることが圧倒的に多い、という、誰かにとっての真実が大事なのです。

 

 

ここで、今回の筆者の主張の元となっている根拠を見て、彼女のバックグラウンドを推測してみましょう。

 

彼女はきっとこの社会的弱者の体験者です。

客観的な事実を述べているように見えますが、描写が細かいですし、感情が入り混じっているので、自分の、または自分に近しい人の経験を元に書いているのでしょう。

 

だから、この記事に対して何か批判をするときに、筆者の体験を100%否定するような言い方はしてはいけないと思います。

なぜなら、これは、彼女にとっての真実だからです。

 

また、実際に、同じ能力を持っていても、女性だからすぐに結婚や妊娠で退職するだろうという憶測や、組織は男性がリードするべきだという(無)意識が働いた結果として、違いが就職や昇進や給与に表れる、というのは、データとして証明されています。

これは、事実です。

 

この、”誰かにとっての真実”と事実を混ぜてしまうから、論点が少しずつずれてしまうんですね。

 

 

ここでは、わたしは、どの主張が正しいという議論はしません。

ただ、こういう意見に向き合ったときに、どういう風に捉えるのか、の自分の考え方を残しておきたかったのです。

アメリカに来てから、個人の権利というトピックについて考えることが増えました。親しい人から聞く体験談を聞いて胸が痛むことが多いのですが、その痛みに流されないように、主観と客観の目を両方を持って考えられる人になれるように、日々努力の繰り返しです。