ときめきを追いかけて。

地に根を張る年。

学校で今、デモが起きている。

マイノリティーと呼ばれる人たちが、今キャンパスで、怒りを、悲しみを、つらさを、悔しさを、爆発させている。

 

---Twitter企画 第2回---

 

春休みの少し前、こんな記事が大学新聞に載った。

"Excuse me, but your privilege is in our way" http://www.thedepauw.com/opinion/excuse-me-but-your-privilege-is-in-our-way-1.3144643#.UyBxmRDld8E

 

この記事は学校中で物議をかもした。そこからデモが始まった。"DePauw doesn't care!"と叫びながら学校を横断する人たち。毎週開かれる“集会”。学校の平和な雰囲気が壊れてしまった。もう元に戻らない気がした。

インターナショナル生としてわたしは何か意見するべきなんだろうな、求められるんだろうな、と思いながら、ぼんやりとデモを、大学新聞に次々と投稿される記事を、Facebookの過激な投稿を、追いかけていた。自分の気持ちや体験については語らなかった。語りたくなかった。語る気分にならなかった。

 

アメリカと一口に言っても、場所によって雰囲気はがらりと変わる。The United States of Americaが正式名称のこの国は、州ごとに法律も違えば歩んできた歴史も違う。だから自然とそこから派生する文化や社会や環境が分かれてくる。ざっくり分けて、東海岸、西海岸、中西部、南部。比較的明るく開放的な印象である西海岸、人種のるつぼであるニューヨークを中心とした東海岸とは違って、南部はまだ人種差別や公民権運動の影響が残っている。そして中西部は歴史的に白人中心社会であり、かつ、保守的である。

 

わたしの大学があるのはインディアナ州、つまり中西部。私立リベラルアーツカレッジとあって、比較的にお金持ちの子が多い。他の大学とは違って、グリークに所属する生徒は全体の約70%ととっても多い。だから記事で、"privilege"を持っているとされたのは、あるいはここにいる生徒が心のどこかで思っているのは、はたまたあるいは無意識のうちに行動指針となっているのは、"上流階級出身でグリークに所属する白人"だった。

 

Posseと呼ばれる、シカゴやニューヨークなどを中心とした大都市に住むマイノリティーを対象にした、学費全額負担の奨学金制度を取り入れたり、才能のある生徒には積極的にファイナンシャルエイドや奨学金を出すわたしの大学には、実に様々な人が集まってきている。JGAPさんのエッセイ( http://japangap.jp/essay/2014/03/find-what-makes-you-yourself-1.html )で書いた、"実家にガードマンがいる子もいれば、実家に帰るための35ドルのバス代が工面できない子もいる"というのは事実だ。

アメリカ、あるいは、中西部から外に出たことがない子もいる。そういう子の多くは、自分たちの“当たり前”が“当たり前”じゃない人もこの世にはたくさん存在すること、自分たちの“当たり前”なんて世界の中心なんてとんでもなくむしろほんのちっぽけなものだということ、を知らない。知っているのかもしれないけれど、認識していない。認めていない。

だから、"privilege"がよりはっきりする。意識していてもしていなくても、悪気があってもなくても、どうしてもそれはキャンパスという社会のなかに存在している。それらを気にするのは、社会から除外されているように感じるのは、差別されていると思うのは、ある意味、当たり前の結果のような気がする。そしてその怒りがいつか爆発するのは当然の帰結だった。

 

でも、違和感があった。

彼らは、"We"と"They"を分けようとしている。"'They' don't try to understand 'us'"とよく言う。暴力的な言葉を使う人もいる。Facebookで誰かのことを名指しで批判する人もいる。わたしが日本人だからって、"us"に引き入れようとしてくる。入らない、と言えば、どうして?と聞かれる。わたしがマイノリティーだからって必ず問題を抱えているはずだ、と勝手に予測しているのだ。"You are different from 'us'".と言われる。言われなくてもそういった視線を投げかけてくる。ナショナルのフラタニティー/ソロリティーは、白人至上主義だという批判がある中でそれでもマイノリティーを受け入れる。一方で、マイノリティーフラタニティーはマイノリティーしか受け入れない。"hazing"と呼ばれる、新メンバーの"試練期間"には、彼らを人として扱わない。

 

全ての人が対等に扱われることを目指してデモを行っている彼らがこういう態度を取るのは、おかしいんじゃない?と思った。わたしが日本人だからと言って問題があるとは、意見があるとは限らない。暴力的な言葉を使って名指しで誰かを陥れようとするなんて人間の尊厳に欠けている。白人は分離・隔絶(segregation)と批判をする彼らだって自分たちのコミュニティをもうつくりあげて他の人を、"privilege"を持っていると自分たちが決めつけている人たちを、受け入れようとしない。

 

それに、彼らは"They"を理解しようとしていない。今までの自分たちの人生で自分たちを傷つけてきた人とは別人なのに、同じカテゴリーだと勝手に決めつけてくくりつけてしまう。なぜ理解してくれないのか、と、固いボールをコントロールもせずにただただ投げつける。投げつけられたほうはそのボールをどうしたらいいのかわからない。痛みを負わせた彼らにポジティブな印象を抱くわけがない。そんな人たちを見て彼らは、また理解してくれなかった、と落ち込み、怒りを抱き、次に投げつけるボールを用意する。さらに固く、大きく。

 

そんな混乱するキャンパスの中、わたしが思っていることはただひとつ。

結局、最終的には、『人 対 人』 の話だ、と。

 

人種とか経済状況とかそんなのは別にほんとうはたいして関係ない。きっと“壁”をつくるのには実は相手も自分も関わっている。みんながみんなと仲良くなれるわけじゃない。育ってきた環境によって最終的に馬が合う人というのは自然と決まってくる。こういったことをまずちゃんと認識して、意識して、理解した上で、周りの人に優しくあること。自分から壁をつくらないこと。

最初は難しいかもしれない。人種差別がないとは言わない。それでも、自然と人はあなたの周りにちゃんと集まってくる。ちゃんと理解してくれる人が現れる。それは人種が同じだからとか両親の年収が同じだからとか出身地が同じだからとか、そういうのが理由じゃない。たまたま最終的にそういった部分で同じ人たちで落ち着くかもしれないけれど、でもそうやって周りに集まってきてくれた人たちのほんとうの理由は、あなたに共感したから、あなたをケアしたいと思ったから。そういう理由のほうが絶対に大きい。そして忘れたらいけないのは、その人たちでさえあなたを100%理解できるわけではないということ。

 

しばらく前にこんなTweetをfavしていた。

大事にしたいと最初から思えなくても、大事にしよう。自分のことを理解してくれなさそうな人に優しくあるということ、自分からオープンになることはとっても勇気がいるけど、それでも、一歩踏み出して彼らを大事にしてみよう。どこでどうあなたに影響を与えてくれるかわからない。どこかの誰かがあなたは今この人に会わないといけない、と決めたからあなたは今その人に出会ったのだ。出会えたということはそれだけでもう価値がある。そしてあなたの世界に残り続けてくれている人たちをもっともっと大事にしよう。

だからまずは、今日会う人たちに優しくあること、あなたの人生に関わってくれた人を思い出すこと、そしてあなたの世界に居続けてくれている人たちに感謝の思いを伝えること。そこから始めてみませんか。