秋の日に思い出す、母からわたしへの #受けつぎごと
毎年秋になると思い出す、家族との思い出があります。
さつまいも掘りをしたこと。
家の裏山に登ってあけびを食べたこと。
愛犬と一緒に箕面の山にハイキングに行ったこと。
(そこで紅葉の天ぷらを食べたりお猿さんに襲われかけたこと。)
夕食に出てくるさんまが楽しみだったこと。
大量の栗の皮むきをしながらおしゃべりしたこと。
キノコ狩りをしたこと。
食べられるどんぐりについて学び調理するツアーに参加したこと。
わたしが子どもの頃は、まだスマホも無く写真と言えばデジカメで(そういえば中学生の頃お誕生日か入学祝いにデジカメを買ってもらったんだっけ)。
遠くの知らない誰かが送っている生活については知る由も無く、常に自分たちのいる環境で次は何しよう、何ができるだろう、を考えていたのだと思う。
その基盤をつくってくれたのは間違いなく母。
今、毎日それほど忙しいわけでもない自分だけの日常でも、意識をしないとあっという間に時間が流れていってしまうのに、
当時7つも8つもお稽古ごとをしていたわたしのスケジュールを見ながら、わたしに経験させてあげたいこと、覚えておいてほしい景色を、母がたくさん考えて毎日に組み込んでくれたことを想像すると、
嬉しさと感謝と愛おしさと尊敬の念がぐしゃぐしゃに混ざって涙に変わってしまう。
振り返ってみると、昔からわたしの生活のなかには母が季節を楽しむ工夫をたくさん施してくれていました。
「今はこれが旬だよ」と話しながら食べるのは当たり前で、夏になったらふたりでハワイに行き、冬になったら裏山からこっそり分けてもらった材料でクリスマスリースやお正月の飾りをつくり、つくしを見たらもう春だね、と話していた。
行事の飾りも絶対にあった。一緒につくることも何度もあった。
今のわたしはそれらをなかなか実践しきれていないとは言え、空模様や香り、ちょっとした風の変化で季節の移ろいを感じて感動できる感性を育ててもらったからこそ、心豊かになる瞬間を日常のなかで意識せずとも自然に見つけられるのだと思います。
もちろん落ち込むことはある(最近は季節の変わり目だから心の元気が特にないです)し、見逃している世界の美しさや醜さもきっとあるのだろうけれど、育ててもらった感受性を育み愛おしみながら歩いてゆきたい。そして、大切な人たちとちゃんと共有してゆきたい、です。