25歳になりました!

 

朝、ぐーんと身体を起こしたら、25歳になっていました。

「わたしもう四半世紀も生きてるんだ…!」って気づいて、衝撃。

 

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24歳になる直前に、東京での新生活が始まりました。

 

一年も経つと、よそ行きの顔をしたトウキョウの街も少し表情を崩してきて、行く先々でそこで時間を過ごしてきた人々の息吹を感じられるようになってきました。

お散歩をするなかで緑の豊かさに気づいてきたし、攻略が不可能だと思っていた大きな駅にもちょっとずつお気に入りの場所を見つけられるようになるもんです。

 

お仕事面では、自分には何もかも足りていないって踠き喘ぎ苦しんだ一年間。

終えてみて「まだまだできることがあるはずなのに」と悔しく情けなく不甲斐なくなったり、まだまだきらっと突出した何かがなくて焦っている今だけど、それと同時に、一年間を振り返ってみると、真っ直ぐ全力で走ったりふらふらとしながらも歩いたりぐるぐる回ってみたり後戻りしてみたりした軌跡が意外とくっきりと残っていました。

 

教育の仕事とは、種を蒔き続けること。環境を整えること。

土の耕し方とお水のあげ方を伝授すること。

これから先お天気が味方しないときには自分でその環境を変えられるようにスキルと自信と身につけてもらうこと。

お花が咲くまでできる限りのことをしながら待つこと、待てるようになってもらうこと。

期待通りのお花が咲かなくても実が生らなくても、希望を失わないようになってもらうこと。

 

生徒たちに渡す言葉や届けたいと願っていること、大事にしている想いを自分にもほんの少し向けてみたら、この一年間の自分に小さな拍手を贈ってあげても良いかもしれないって思います。

 

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24歳の豊富は「自分のことをちゃんと許して愛してあげられる一年にしたい」でした。

 

わたしはとても運が良くって、今まで願ったことは大抵叶えられてきたんだけど、この一年間は自分の願いごと以上にたくさんの良い巡り合わせがありました。

もちろんその過程でアップダウンはあったけれど、その度にお話を聴いてくれる人たちがいて、笑わせてくれる人たち、肩を貸してくれる人たちがいました。

緊張とストレスで食事が喉を通らない、身体はとっくに限界を超えているのに寝られない、うまく息ができない、という日々が続いたときも、いつも気にかけてくれる人たちが側にいました。

 

ラーニングデザインとは、ときに、自分の向き合いたくない過去をじっくりと見つめる作業でもあります。その呪縛から自分自身を解き放ち、呪いを昇華させるための言語化を直接的にも間接的にも手伝ってくれる人たちがいました。

ラーニングデザインとは、同時に、これまで受けてきた愛情を(再)認識する時間でもあります。感謝の念がむくむくと湧き、自分の完全なる不完全さ(perfect imperfection)を受け入れることがまた少しできるようになりました。

 

自己嫌悪に苛まれる時間が短くなったように思います。

自分自身に愛着を持てるようにもなってきたと思います。

 

24歳の一年間を一緒に歩んでくれたみんなが、寄り添ってくれた人たちが、わたしにはきらきらとして見えます…!しあわせものだなぁ。

 

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もし気に入らなかったらいけないから、と、2日前に少し照れた表情で「会社のパソコンが入る鞄」をくれた父、帰った実家で「いつも通りの日常」を演出してくれた母。

少しは大人になった、って自分では思っていても、彼らの目にはまだまだなんだろうけれど、次に会うときにはまた内側の成長が滲み出た綺麗さが増しているといいな。

 

25歳は、意志のある選択を大切にしたい、です。